ロータリーエンジンの苦悩

「昭和43年ごろ、まず排ガスの正体を調べることから始めました。

排ガスの中には炭酸ガス(CO)、炭化水素(HC)、窒素酸化物(NO)などが含まれています。

このうちCOは主として空気と燃料との混合比(空燃比)によって支配され、エンジンの形状とは関係ありません。

エンジンの形状や条件によって増減するのはHCとNOです。

ところが最初のうちはNOはあまり問題にならなかったのです。

つまり従来のレシプロエンジンに比べてロータリーエンジンの排ガスが米国の雑誌などで批判されたのは、HCのことだ、ということがわかりました」

マツダはこのHCを減らす努力をします。

その甲斐あって乗用車からトラック中古車に使われるロータリーエンジンすべてでマスキー法をクリアしました。

博物館行き?

「ところがその翌年だったと思います。

日本のある自動車専門誌に、日本の某自動車メーカーの技術者が『ロータリーエンジンは排ガスに問題がある。米国のカリフォルニア州でスモッグが問題になっているが、これは近く米国全土から世界中に広がる大問題だ。その時にロータリーエンジンは命脈が尽きる。ただ、博物館に展示するくらいの価値はあるだろう』という一文を書きました。

これを読み、先のハイデカンプ社長の話を思い出して、私は『早急に排ガスの解決手段を考えないと危ない』と感じました。

排ガスは日本でも近く大きな社会問題になりそうだ。

ただでさえロータリーエンジンはレシプロエンジン全盛の中で"異端児"扱いされており、常に抹殺される危険性があったのです。

そこへ排ガスの問題が新しく出てきて『ロータリーエンジンは米国を走ることはないだろう』とか『博物館に置く価値はある』などといわれ始めた。

これらの言葉が、私の技術者としての意地を著しく刺激したのです。

なにくそ、抹殺されてたまるものか、と思いましたね」

この反骨精神でマツダはロータリーエンジンの改良に挑み、マスキー法を乗り切ります。

今の車は自家用車から中古車トラックまですべて規制をクリアした車ですよ。

"国民車"第一号

通産省の国民車構想から3年たった昭和33年3月3日、富士重工業は大人4人乗りの軽自動車『スバル360』を発表した。

値段は東京渡しで42万5,000円だった。

通産省の国民車構想による価格25万円に比べるとかなり高い。

しかし当時の乗用車としては破格に安く、一応"国民車"第一号として注目された。

当時はバスやタクシーなどの共用交通機関か、トラックや中古トラックなどの非乗用車しかなかったのだ。

主な仕様は次の通り。

全長1メートル99センチ、幅1メートル38センチ、重量385キロ、空冷式二気筒、総排気量356㏄、最高出力16馬力、燃費1リットル当たり26キロメートル、最高時速83キロメートル。

3月4日付の朝日新聞は「国民車市販第一号」という見出しで次のように報じた(大要)。

「値段や最高時速は通産省の国民車構想とかなり開いてはいるが、ともかく"国民車"と名乗るものの市販第一号である。

富士重工では『スクーターにはあきたらず、小型自動車は待ち切れない、という所得層をねらって、1年後の月産を500台におく』といっている」

しかし実際には売れ行きはすばらしかった。

富士重工によれば、翌34年は年産約5900台とほぼ予想通りだったが、35年には約1万5,500台と3倍近くに伸び、9年後の42年5月には累計50万台を超え、国産同一車種生産台数の当時の新記録を達成した。

自分の車「国民車」

昭和30年に通産省が策定した国民車構想は、それ自体は実らなかったものの、その後の乗用車の大衆化への幕開けの役割をつとめた、といえよう。

戦後の日本の自動車工業は、昭和30年に登場したトヨタ自動車工業(当時)のクラウンが一つの時代を画した、といわれている。

たしかにクラウンは戦後10年での日本の自動車工業の技術水準の高さを示すものである。

しかし用途はタクシーや法人用で、当初の価格は101万4,860円と大衆にはとても手の届かない"高根の花"だった(当時の大卒の初任給は約1万円)。

だからクラウンの登場は社会的に見た場合、せいぜい産業界、あるいは交通機関にとっての問題に過ぎない、といってもよい。

タクシーも法人用の自動車も戦前からあった。

ただ外車が国産車に代わっただけである。

これに比べ、国民車構想は、価格を25万円程度にし、とにかく一般大衆が所有できるようにしよう、というのだから、クラウンの登場とは全く社会的意味が違う。

タクシーのように一種の公共的交通機関、トラックや中古車トラックの業務用車としてあるのではなく、"自分のクルマ"を持つとなると、持った人間の個人的感情や人生観、家庭生活まで激変する。

事実、昭和40年以降に巻き起ったモータリゼーションの大波は、日本の社会構造や個人の生活様式をよくも悪くも大幅に変えた。

国民車構想は、結局、その時点では実現しなかったが、長い目で見た場合は卓見といえる。

ガソリン車第一号

蒸気自動車の国産第一号は山羽虎夫によって製作されたが、ガソリン自動車の国産第一号は、それより3年後の1907年(明治40年)に、東京・銀座の双輪商会の吉田真太郎と内山駒之助が作ったタクリー号だ、とされている。

吉田は明治35年に米国から自動車用のガソリンエンジンを2個持ち帰り、日本で最初の自動車販売店である双輪商会を作った。

さらに自動車の製造を思い立ち、内山と共に東京・木挽町に東京自動車製作所を設立した。

内山は技術的な才能にすぐれ、14歳の時に船や機械の技術を覚えるためにロシア領のウラジオストックに渡って、ある機械工場に雇われた。

そこに1台の自動車があり、その修理などを手伝いながら自動車の構造や運転を覚えた、という。

明治20年代の末ごろのことである。

いわば吉田は日本で初めての自動車販売、製造会社の経営者であり、内山は日本で初めての自動車の技術者だったといえよう。

この二人が今の中古トラックにまで受け継がれる大業を成したのだ。

国産第一号の夢

「鋳物は市内の鋳物師が作った。

水管や歯車の工作、取り付けは一切が自己流だった。

フレームとボディは樫材で、車輪のリムは鉄板を曲げて作った。

このように苦心に苦心を重ねて、翌37年4月にやっと完成した」

この一号車は、翌5月7日に試運転をしたが、タイヤに致命的な欠陥があったために成功したとはいえなかった。

発注主の森房造が計画したような、岡山-高梁間の50キロを10人乗りで毎日運転することはとうてい不可能だった。

結局、この車は実用化されずに終わった。

しかし森房造の企業家としての"夢"と、山羽虎夫の技術者としての苦心が結びついて生まれた蒸気自動車は、国産自動車第一号という名誉ある記録を作り、日本の自動車史に長く名をとどめることになった。

これが後の中古車トラック にまで影響を及ぼす「国産第一号車」です。

ABCに体当たり その2

トラック中古車業界で次に革命的なシステムを発表するのはどこの会社でしょうか。

とりあえず前回の続き。

ここに検品代行の新しさがありますが、なによりも注目されるのは、問屋側と百貨店側の立場になって双方のニーズを集約し、"在庫の圧縮"、"リードタイムの短縮"、"ジャスト・イン・タイム"というメリットを追求したシステムである点です

納品代行も検品代行も、コロンブスの卵と同じで、実現してしまうと、「なんだア、そんなことか」と侮る人びとが多いのですが、新しいシステムを創造するのは決して容易ではありません

"奉仕と誠実"の精神にそい、輸送秩序の確立と交通公害の減少に寄与するという経営理念で、荷主に対してたえず"気働き"しているNトラック運送だからこそ、できた芸当なのです

では、なぜ検品代行が注目されたのでしょうか

ABCに体当たり

検品代行も有明綜合物流センター(ABC)の完成を機に新たな物流のヒット商品として、Nトラック運送の成長を促す大きな柱となりつつあります

検品代行は、百貨店の荷受所で行なわれている検品業務を代行するものです

具体的には問屋から百貨店へ納入する商品を伝票とともに集荷し、夕刻から夜間にかけてABCで検品を行ない、翌朝デパートの開店前に納品します

納品代行は問屋に代わって検品所での納品業務、つまり検品受けを代行するものであり、その料金は問屋から収受しますが、検品代行は百貨店が行なう検品業務を代行するものですから、その料金は百貨店から収受します

そうして、中古車トラックの配送需要を一箇所に吸い上げているのです。


モータリゼーション

ちょうどその頃、昭和26年の洲本市内の車両台数は乗用24台、貨物44台、バス68台、その他を合計して2129台という状態であった。

だが、やがて中古トラックや車への需要は徐々に増え、昭和26年には島を縦断する国道28号線の改良工事がスタート。

29年には明石と鳴門に国道フェリーと須磨・大磯間に淡路フェリーが就航。

更に35年には淡路と本土・四国を結ぶ架橋の促進期成会が発足。

淡路島は、本格的なモータリゼーションの時代を迎えることになる。

それは最初、自家用三輪自動車の普及と鉄道のバスへの転換から始まった。

昭和20年代、まず干物の卸商や八百屋、建材店、農協、酪農組合などが自家用三輪車をもつようになった。

淡路特産のタマネギ栽培が今日の隆盛を実現したのもそのことをヌキにしては考えられない。

代燃車

代燃車という車があります。

代燃車は、たき木を燃料に走れる『淡鉄式鉄道用ガス発生炉』を全国にさきがけて開発、これを主力に戦時輸送の任にあたったそうです。

そして、それが改良されて、そのまま中古車トラックや自動車にも利用され、戦後も1台2万5千円で販売されていたという。

当時のことを知る人はこう語ったそうです。

「初めはバスの車内に積んでたのを、後に外にくっつけるようになったんですが、これが実によく働いた。

アメリカが進駐してきたとき『石油がないのに走るトラック』というのでびっくりした連中が本国まで持ち帰った。

痛快な思い出です」

ただ、当時を知る別の人によると、「爆発力が弱かったので、ずっとかけつづけたままでもエンジンはいたまへんけど、炉の中の木炭にスキ間ができるわけや。

それを鉄棒でついてくずさんならん。

すると、ブワァーンちゅうてガスが吹き出しよる。

何回ヤケドしたか、知れへんわ」